藤村操

2007年04月25日 21:40

仕事の移動時に読む本は、最近、もっぱら司馬遼太郎氏の「街道をゆく」である。

海外にまつわるものを読んだのち、今は本所深川あたりで、神田である。

神田にまつわる話で、岩波文庫を引き出すにあたり、岩波氏に影響を与えた藤村操のエピソードになり、ああ、あの人か、と懐かしく読んだ。

父から、幼少時分、若い頃の話などをよく聞かされ、その話の中に「藤村操という人がいて」という話をしていたのを思い出した。

藤村操は、旧一高の学生で「宇宙は遠大で自分には理解不能なので、自分は死ぬ」というような遺書をしたため、華厳の滝に身を投げた、というような、すこしふさぎ気味の学生だったような印象もある。

父が、なぜに藤村操の話をしたのかは、今も理解不能ではあるが、きっと宇宙の真理を考えるうちに死を選ぶほど純粋な若者もいたのだ、ということが言いたかったのか、優秀な人は短命であると言いたかったとか、今も不明である。

しかし、ふと司馬氏の本からそういう思い出を思い出したのは、あの当時の人間にとっては「藤村操という自殺者」を知らずしてどうすりゃー、というほどの人物であったのかもしれない。

司馬氏の藤村評はかなり痛快であった。

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災難

2007年01月31日 18:53

私の恩師のお宅に数人の強盗が押し込んだ、ということが新聞に載っていた、と、オットの恩師からの葉書が到着。

年賀状を寄こさないくせに、こーゆー押しつけがましい連絡をしてくるあたり、いじわるジジィ全開。
ということは元気な証拠とも。

オットの恩師は実は仲人です。
該当者あるいは適任者がほかにいなかったので、頼んだ仲人ですが、高知県人で、まぁいわゆる頑固者であり、「いちがいな人」だったりです。
ご子息のお嫁さんは、旧ソ連からお輿入れしてきたウクライナの方なので、偏屈でもなさそうですけども。

で、押し入った強盗を撃退したのは賢夫人であります。
夫人が警備会社に通報したので、強盗どもはなにもとらず、危害もあたへず立ち去ったそうで。

オットの恩師は「電話はしないほうがいいが、Mさんの住所はこれこれ、知人もよろしく言っておけ」なーんて書いていました。
仕方ないから、同じゼミだった知人にも連絡しておきました。
その知人の情報によると、明日は恩師の誕生日だそうです...。

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カオスの時代

2007年01月13日 09:36

学生運動で思い出したこと。

長男が

「60年代後半から70年代のファッションがリバイバルしているのを見ていると、時代の繰り返しを感じるけど、でも、あの時代は恐いという印象がある」

と言ってまして、それは、学生運動のデモや、成田闘争などの映像を見ていると、今とは全然違う時代を感じるからだとか。

60年代後半は、ヒッピームーヴメントや、大学紛争など、戦後の時代から、新しい世相を感じさせるような動きがあったように思います。

その前には、日米安保闘争とかの労働者運動とか、とにかくデモ、投石、火炎瓶、機動隊、殴り合いなどなど、そういう方法で社会にアピールして変えたい!という思想がまだあった時代だったと思われます。

そして、そういう運動を支えていたのが、戦中生まれ、戦後の団塊の世代の方達だったような。

私は「遅れて生まれてきた世代」で、親も大正デモクラシー後に生まれているので、団塊の世代とは、少し考え方や感じ方が違うようです。

世界的にも、パリの学生運動、アメリカでも大学生の活動など、戦争に勝ったとか負けたとかには関わらず、転換点の時代だったのかも知れません。

テレビで、安田講堂の映像や、ヘルメットをかぶった学生のデモを見て

「この世の行く末はどうなるのか」

と子供心に不安が広がったことを今も覚えています。

大人になってみると、そんな暴力的なベクトルにも、いろんな駆け引きがあって、ゆくべき方向に進むらしい、ということもわかってきて、段々切迫した感情が薄れていくような気がします。

だから、若いということはすごい、というか、恐いというか。
今の大学生は、親の手出しがあったり、非常に傷つくことを嫌って、石橋を充分叩いて叩いて、準備周到な大人の予備軍みたいな人が多くなっているような印象を受けますが、昭和の時代の学生は、まだ、青春の蹉跌を踏んでから大人になっていくというような人が多かったような気もします。

社会が安定しているか、豊かなのか、そういう要素が人の思想性を形成していくような気もします。
同じ人間なのに、感性が違う、わかりあえない、と思うのは、そういうところにも遠因があるのでしょうか。

恩師

2007年01月12日 19:26

年末年始に訪れた友人と、恩師の消息のことが話題になり、彼女は

「M先生から年賀状が来ない。もうダメになったのか」

と言っていましたが、私は年賀状をもらっていました。

しかし、字は恩師の手になるような、そうでないような、ちょっと違和感を感じるような印象も。

我が家は、ここ最近になって、家族それぞれの肖像を貼った年賀状を送っていますので、それを見て書いたと思われる賀状でしたが、どう見ても女性的な文章でもあります。
奥様のお返事だったのかしら、とも思います。

恩師は、大学時代のゼミ教官ですが、もう80才中盤のお年と思われます。
学生時代は、お正月には地元に住む学生は、その先生のお宅にお正月の挨拶に行って、お節を御馳走になっていました。

東大で学び、学徒動員には、生憎乙種になったので、戦地には赴かず、内地に赴任して終戦を迎えたという話も聞かされました。

蛇足ですが、伯母の旦那さんが、その恩師と旧制高校で同級生でしたが、義理の伯父は人間魚雷になって出撃したものの、敵がいなかったので戻ってきました。
戦後、そのことでいろいろ言われたようで、文藝春秋にも寄稿していましたが、上官の判断は、命を大事にする、という日本人には珍しく合理的な考え方だった訳ですから、今なら「それでいいじゃん」と言われてよかろうと思われます。

私が大学に入学した頃は、学生運動の嵐の後で、ロックアウトの話もよく聞かされました。
その後遺症か、私たちの時代は「ノンポリ世代」で、自治会運動に参加する学生も少なかったようです。

ちなみに長男の大学ではいまだに、学生運動継続中とかなんとかで、そのキャンパスだけ「学園祭」禁止なんだそうで。
よほどひどいことをしたのかしらん(笑)。

友人夫婦と私たち夫婦は、年齢は違いますが同期生なので、会うと昔話をしますが、我が家の息子どもも同席の場では止めて!なこともあります(汗)。

年齢の違う同期生というのは、今の時代は、同質性でないと落ち着かない若者が多いようですが、私の同期生では、年齢差7才という同級生で構成されていました。

私の高校から進学した学生は、どういう訳か早生まれの学生が多かったので、18才になったばかりの学生と、25才くらいのおっさん学生とが、共に学んでいました。

そう言えばゼミの先輩は、もっと年上の方で、働いている女性に養ってもらっていた方もいました。

「神田川」のような時代に学生時代を送って、ビバ!貧乏!で、地味な学生時代で、正直面白くも可笑しくもなかったのですが、今とは違うかなり面白い時代に生きていたような気がします。

ところで、恩師は本当に大丈夫なのでしょうか。
オットの恩師からはついに年賀状が届かなかったようですが...。


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